医学のあゆみ
Volume 232, Issue 1, 2010
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【1月第1土曜特集】原始感覚と情動 − 生体防御系としての情動機構とその破綻
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- 総 論
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原始感覚による情動の生成とその破綻
232巻1号(2010);View Description Hide Description嗅覚,味覚,内臓感覚,そして痛覚は,視覚や聴覚などと異なり,感覚そのものが無条件に個体の生存にとっての価値をもち,それゆえに生得的に快・不快情動と結びついている.この点においてこれらの感覚は原初的かつ根源的な感覚であり,原始感覚とよぶべきものである.これらの感覚を介して生じる不安,嫌悪,恐怖,抑うつといった不快情動は,生体を危険から遠ざけ,個体や種を維持していくための生体防御システムとして進化の過程で獲得された機能である.その一方,生体防御システムである情動系の異常が,うつ病や不安障害などの精神疾患やストレスにより発症・増悪する身体疾患(心身症)を引き起こす.本特集ではこれらの感覚モダリティーから不快情動生成に至る最新の研究を取り上げる. - PART1
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内臓刺激による不快情動生成機構の解明
232巻1号(2010);View Description Hide Description消化管からの痛覚信号は脊髄神経の感覚ニューロンが受容し,発火すると脊髄後根から脊髄後角ニューロンに信号を伝える.その軸索は対側の脊髄視床路,脊髄網様体路を視床まで上行する.ここから島,前帯状回,前頭前野などに信号が投射され,刺激強度が高い場合か,感覚閾値が低ければ内臓痛覚を起こす.内臓感覚の病態は過敏性腸症候群(IBS)の病態生理を説明し,不快情動の生成機構を解明する鍵も提供すると考えられる.その解明が今後重視されよう. -
痛み誘発負情動から考える“心”の起源
232巻1号(2010);View Description Hide Description“痛み”の生物学的本質を理解するためには,侵害受容情報からどのような脳内機構によって“苦痛”が生み出されるのかを理解する必要がある.近年の研究によって,侵害受容情報が情動にかかわる 扁桃体などの領域に直接送られ,そこでのシナプス伝達を活性化しシナプス伝達を促進する事実が明らかにされてきた.驚くべきことにこれらの神経経路は,味覚,内臓感覚,嗅覚などの他の原始感覚による情動の形成にも大きくかかわっており,個体に及ぶ危険を知らせる回路として進化の過程で獲得されたものと想像される.さらにこれらの神経回路は,自律神経機能の制御にかかわる視床下部,孤束核などに投射することによって心拍数や心拍出量などを変化させ,まさに“心臓”の変化として“心”の状態を個体に察知させる.“心”や“情動”の起源は,外界からの有害情報に呼応して自己へのその影響を調整し最適化する適応神経機構ではないか,という著者の仮説を紹介する. -
痛みによる不快情動生成−分界条床核の役割
232巻1号(2010);View Description Hide Description痛みによる“好ましくない不快な情動”は私たちを病院へと赴かせる原動力であり,生体警告系としての痛みの生理的役割にとって非常に重要である.しかし,痛みが長期間持続する慢性疼痛では,痛みにより引き起こされる不安,嫌悪,抑うつ,恐怖などの不快情動は生活の質(QOL)を著しく低下させるだけでなく,精神疾患あるいは情動障害の引き金ともなり,また,そのような精神状態が痛みをさらに悪化させるという悪循環をも生じさせる.これまでに痛みの感覚的側面に関しては精力的に研究され,その分子機構もしだいに明らかになりつつあるが,情動的側面に関する研究はいまだ緒についたばかりである.分界条床核は, 扁桃体中心核や無名質とともに“extended amygdala”とよばれる脳領域を構成しており,不安,嫌悪,恐怖などの負の情動生成に 扁桃体とともに重要な役割を果たしている脳部位として注目されつつある.著者らの研究により,分界条床核におけるノルアドレナリン神経情報伝達あるいはCRF神経情報伝達の亢進が痛みによる不快情動生成に重要な役割を果たしていることが明らかとなった. -
原始感覚による情動生成およびその制御機構に関する脳機能画像解析
232巻1号(2010);View Description Hide Description痛覚や嗅覚といった原始感覚は単なる感覚にとどまらず,情動的な快・不快といった側面ももっている.また,この感覚は情動・認知などの心理的要因によって容易に変化する.本稿では原始感覚と情動との関連性についてこれまでの知見を概説したうえで,これまで著者らが行ってきた脳機能画像研究の結果も合わせて紹介する.痛覚と情動との関連性について,これまで脳機能画像解析を用いて不安や恐怖といったネガティブな情動との関係について報告されてきたが,著者らは悲しみによる痛覚閾値の低下と前帯状回・ 扁桃体の関連について明らかにした.嗅覚と情動との関連性について,これまでの研究から嗅覚刺激を与えるとOFC領域の活動が上昇することが知られていたが,著者らは快・不快の匂いの違いによりOFC内側・外側の血行動態の違いがあることを明らかにした. -
感情制御の発達不全とその回復−嘔吐経験がトラウマとなった小学生事例の治療経過から
232巻1号(2010);View Description Hide Description本稿では,嘔吐という内臓感覚による生体防御反応がトラウマとなり,そのために心理的問題を呈した小学生の2事例を取り上げ,生体防御反応としての情動を,大人から否定される経験が心理的健康の破綻を生み出すマクロレベルでのプロセスを示す.本来,生体防御反応としての情動の喚起に際して,大人が肯定的に受け止めることを通して子どもの身体に安心感が喚起される経験を重ねることにより不快感情を制御する力は発達する.しかし,不快感や負情動を表出せずに大人の指示に従う子どもを“よい子”とみなす現代社会においては,大人の理想と子どもの生体防御反応は対立し,そのために子どもたちの感情制御の力が育たないという深刻な問題が起こっている.子どもが身体のレベルで感じている原始感覚と情動を大人が肯定し,適切な感情語彙で応じるというコミュニケーションの回復が治療援助の要となる. -
痛みと鎮痛における個人差の遺伝子メカニズム
232巻1号(2010);View Description Hide Description痛みは危険を伝える重要で原初的な生体防御システムである.一方,過剰な痛みを取り除く鎮痛システムも生体には備えられている.これらのシステムは快・不快情動の生成において根源的なメカニズムのひとつであると考えられる.また,これらのシステムの大部分は遺伝的に規定されており,関連する遺伝子の塩基配列の違いは,痛みや鎮痛の個人差のひとつの原因であると考えられる.ゲノム科学の進展の著しい今日ではこのような痛みや鎮痛の個人差の遺伝要因が明らかになりつつあり,テーラーメイド疼痛治療が実現に近づいている.また,痛みと鎮痛の遺伝子メカニズムの解明により,原初的な快・不快情動が生成するメカニズムの解明にもつながると期待できる. -
多様な動物種における情動に関与する候補遺伝子の解析−動物の心の共通基盤を探る
232巻1号(2010);View Description Hide Description怒りや喜びなどの情動行動には個体差が大きい.そうした気質,あるいは性格の形成に影響する遺伝要因については,ヒトで関連遺伝子が多数報告されている.近年,他の動物種でも相同領域の多型が報告され,霊長類やイヌでは性格との関連も判明しつつある.関連遺伝子が見出されれば,型判定によって性格の推定が可能になり,個体に合った飼育環境の整備や作業犬の適性予測に有用である.また種間比較により,ヒトの情動の起源について進化的観点からの情報も得られる. - PART2
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哺乳類の匂いに対する情動を先天的に制御する神経回路の発見
232巻1号(2010);View Description Hide Description匂いはさまざまな種類の情動と深く結びついている.匂い分子は鼻腔の嗅上皮に存在する嗅細胞に感知され,その情報は脳の嗅球の表面に存在する糸球とよばれる神経構造体へと伝達される.著者らは遺伝子操作の技術を応用して,特定の糸球へ接続する嗅細胞のみを選択的に除去したミュータントマウスを作製し,その匂い認識能力を生理学,生化学,行動学の手法を用いて解析する独自の研究を進めてきた.その結果,マウスの腐敗臭に対する嫌悪反応と天敵臭に対する恐怖反応とが,それぞれ異なる位置に存在する糸球からはじまる神経回路によって先天的に制御されていることを世界に先がけて発見した.哺乳類が匂いをどのように感じるのかは,学習や環境の影響を受けて後天的に決まるものとされたこれまでの常識は覆された.本稿では,神経回路を単位として情動を解明するという著者らの研究戦略を述べるとともに,情動の解明に対する嗅覚研究の意義を解説する. -
味覚受容機構と味覚誘発行動・情動の脳内神経機構
232巻1号(2010);View Description Hide Description味覚は食物の経口摂取に際して食物中に含まれる物質の一部を感知し,識別する働きをもつ.そして有害な物質は摂取しないように,また生命活動に必要な栄養物質は摂取するように,嚥下・嘔吐など体性運動系に反射活動を生じさせる(味覚誘発行動).さらに,味を感じると快(おいしい・好き)や不快(まずい・嫌い)の情動が惹起される.また,おいしいと感じると,その食物の摂取がさらに促進される.甘味や苦味刺激は味覚情報を伝導する特定の脳内神経回路の活動パターンを変化させ,対照的な忌避性・嗜好性の行動的反応や,快・不快の情動的反応を惹起する.ここでは味がいかに感知され認知されるか,そして味刺激によって味覚誘発行動・情動がいかに惹起されるか,その機構について最近の研究により明らかにされたことを紹介する. -
ストレスの統合におけるプロスタグランジンの役割
232巻1号(2010);View Description Hide Description疾病や心理ストレスなど外的・内的な刺激による恒常性の破綻はストレスとよばれる.ストレスは発熱,内分泌反応や情動行動など多様な適応反応,すなわちストレス応答を惹起する.プロスタグランジン(PG)E2はアラキドン酸に由来する生理活性物質であり,EP1,EP2,EP3,EP4とよばれるPGE受容体を介して作用を発揮する.遺伝子欠損マウスや特異的薬物を用いた研究から,ストレス応答におけるPGE受容体の役割が明らかにされた.疾病時にはPGE2はEP3を介して発熱を,EP1とEP3を介して下垂体からのACTH分泌を促す.さらに,EP1はドパミン系を介し,心理ストレス下における衝動性を制御する.PGE2はストレスの種類により多様な細胞種から分泌され,パラクライン的に作用する.この性質はPGE2が多様な刺激を普遍的なストレス反応に統合するのに適している. -
痛覚による恐怖条件付けにおけるセロトニンの機能的役割
232巻1号(2010);View Description Hide Description精神科臨床では,いまや選択的セロトニン再取込み阻害薬(SSRI)がほぼすべての不安障害の亜型に対して第一選択薬であり,不安や恐怖の病態機序に脳内のセロトニンが深く関与していることは疑う余地がない.しかし,これまで不安や恐怖におけるセロトニンの機能的役割については十分に解明されてこなかった.著者らは恐怖条件付けストレス(conditioned fear stress:CFS;以前に逃避不可能な電撃ショックを四肢に受けたことのある環境への再曝露)を恐怖の動物モデルとして用い,恐怖とセロトニンの関連について検討してきた.すくみ行動を恐怖の指標として用いると,ベンゾジアゼピン系抗不安薬と同様に,SSRIはラットのCFSで抗不安作用を示す.脳内局所投与実験や免疫組織学的実験により,SSRIは 扁桃体に対する抑制効果を介して恐怖を減弱することが示唆された.